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豊後迫と豊後塚


豊後迫は地元では「ぶんごさこ」と呼ばれています。「さこ」とは鹿児島の方言では「坂」を意味します。地元の史跡案内によれば、戦国時代豊後の大友勢がこの地方まで進出して、この地で合戦となり、そのときの死者を葬った史跡ではないかと紹介されていますが、一方では、720年の古代隼人の反乱の前後に豊前豊後から大規模な秦氏系統の移民政策があり、その痕跡ではないかとも付け加えてあります。私自身は、後者の記憶が「豊後追」として残されてきたのではと考えています。
この「豊後追」を上ると、古代、大隈の国府が置かれていた国分平野が一望できる峠に至ります。期待と不安がよぎる人々は、はるかかなたに広がる桜島と錦江湾を見下ろしたとき、それまでの引きずってきた旅路の重しから開放されてのではないでしょうか。この峠は、新天地への峠のような気がしてきました。 





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