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鹿児島の地名は何を意味している? パート2

  鹿児島県の地図を見たり、車を走らせていると、他の地域にない地名の中で
《宇都》という地名が目に付きます。この宇都という地名がどうしても気にかかっていました。確かに熊本県に《宇土市》という市がありますので、これとの関連性はあるのではないかと前々から邪推していました。熊本の宇土と言えば、小西行長が豊臣秀吉から肥後半国を与えられたときに、落ち着いたところです。しかしこの間に共通項は見つけられないでいました。
 ところが、最近思わない発見に出会ったわけです。それは黒住秀雄氏他共著による《古代日本と海人》(大和書房)です。その中で古代隼人族のコロニーに《う》の付く地名があることが指摘されています。すなわち、《う》とは、《鵜飼》の《鵜》に由来することです。日本に伝わってきた鵜飼のルーツは、中国の江南地方にあることを指摘されており、隼人族とはそこからの移住民であること、また隼人族にとって、《鵜》とは、水(海)を自由にすることのイメージと結びついて、特別な意味を持っていたことを推論されています。かくして彼らのコロニーに《う》の付く地名が残されてきたというものです。
 考古学者の森浩一氏も指摘しているように、近畿、大阪周辺に隼人の足跡が多くあるのは、この地域に古代隼人が進出していたことの証拠でもあると考えられます。
代表的な地名を挙げるとすれば京都の《宇治》ではないかと思われるのです。海洋民族の性格を持っていた古代隼人が、内陸部の京都の宇治にどうしてコロニーを作れるのか、疑問に思われる方も多いかも知れませんが、これは現代の地形からイメージしているからです。この地域の古代の地形イメージを想起すれば、こんな疑問もすぐに払拭できます。そこで地形図をお見せします。中央公論社の《日本の中世6 都市と職能民の活動》から借用したものですが、現在の近畿地方の地形図とは様相が違います。地図中の赤い丸で囲ってあるところが《宇治》になります。どうでしょうか、大阪湾からダイレクトに宇治まで通行できることがわかります。


 次に大阪だけではなく、現在の和歌山、紀伊半島の奥深くにも隼人が進出していったと思われるのですが、これも現在の地図だけを見ていのでは、イメージできませんので、古代のイメージをお見せします。 出典については失念しましたので、心当たりの方はご一報下されば幸いです。

 《古代日本と海人》によれば、薩摩半島にやってきた隼人族は、ここから全国各地にコロニーを形成していくわけで、薩摩半島から、黒潮伝いに豊後豊前の地へ、そこが《宇佐》になり、さらには吉備の地へ、そして瀬戸内海を航海して最奥部の難波へと進出していったと推理されています。《宇土》と《宇佐》と《宇治》、そこにある共通項とは、実は隼人だったのではないかと推理されているわけです。そのコンテクストの中で始めて、瀬戸内海の大三島に有名な《大山祇神社》があることも理解できるわけです。《大山祇神社》とは、薩摩、特に大隅地方に多く散見できる隼人族の首長を奉る神社です。瀬戸内海の大三島に隼人が立ち寄った証拠と考えられます。

《補記》
大宝時代、新しい律令体制国家への移行期の中で、肥後の住民が薩摩半島へ移住させられた事実もあるようですが、この肥後の住民の中には現在の熊本県宇土周辺の人々がいたようです。そうすると、鹿児島県各地に散見できる《宇都》とう地名は、肥後の宇土が先で、それが鹿児島に移植していったとも考えられます。
 しかし、この場合でも、肥後の宇土にしろ、鹿児島の宇都にしろ、もともと隼人のコロニーからの移住だとは考えられないでしょうか。
 
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