SamuraiWorld>古城紀行



丸山城跡   島根県川本町



丸山城は、戦国末期の石見東部の国人領主小笠原長矩によって1582年ごろに築城されたと言われている。
 小笠原氏のそれまでの本城は、現在の川本町に所在する温湯城であったが、1558年に毛利軍によって落とされ、城主小笠原長雄は、蟄居させられ、家督は、息子の長矩が引き継いでいたが、温湯城は毛利氏の管轄下にあったと見られている。
 そこで、かつての本城温湯城に変わる新しい居城として長矩が本格的に築城したと言われている。 以後、小笠原氏が出雲へ転封となるまで、わずか10年間ほどの短い期間、小笠原氏の居城であった。
 戦国末期の築城を思わせるもので、写真のように要所要所は見事な石垣作りで、中世の山城とは趣を異にしていて、中国地方では珍しい山城である。
  余談であるが、小笠原長矩は、吉川元春の三男経言(のちの吉川広家)を養子に迎えたいと申し出たが、毛利輝元の反対にあい、結局実現しなかつた。これは、小笠原氏が吉川氏と縁戚関係を結ぶことで、小笠原氏の勢力回復を意図したものであるというのが通説である。
  経言はたいそうこの話に喜んでいたそうだが、輝元の意向を汲んだ元春は妻との連名で経言に得々と諭した手紙が残っている。当時は吉川家の嫡男元長が元春に劣らず活躍していたので、三男の経言にとっては、たとえ地方のわずかばかりの領地とはいえ、領主になれるのはまたとないチャンスと見ていたのであろう。経言の落胆はかなりのものと想像される。
 輝元は破談する代わりに、経言には今後目をかけていくと約束している。これが吉川広家の誕生へとつながった伏線と見ることもできよう。







関連ページ
古城紀行―島根―温湯城跡



inserted by FC2 system