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No..41  西郷隆盛は菊池一族だった!!


《日本で一番愛された男》などの本がリリースされるくらい、西郷隆盛は国民的に愛され続けてきた《ラストサムライ》だったのかもしれません。
 彼の人気を押し上げている原因のひとつは、彼についての《写真》がないという事実が逆説的に働いていると思います。
 他の幕末から維新にかけて活躍した人物たちのほとんどは、当時一部の人々の間で流行し始めた写真のおかけで、生身の顔を私たちは知ることができます。しかし、どうしてか西郷隆盛だけは写真が見つからない。それは彼の計算済みのことだったのかもしれませんが、彼の顔を写真で見ることができないということは、彼に対するイメージを膨らませる大きな要因になっています。幻想によって作り出した《現実》のなかで、想像による部分が大きければ大きいほど、我々人間はその対象に対して想像を広げることができる余地があるわけで、その分だけ、極大か極小かのいずれかに振り子が振られていくことになります。西郷隆盛の場合、極大化の方へイメージの振り子が振られているのだろうと思います。
 西郷隆盛の写真がないからこそ、西郷隆盛に近づこうとするとき、さまざまな断片を使って、想像力を膨らませていくことで、彼のイメージを作り上げるしかしかないわけです。そしてそこに西郷隆盛に対する不可思議な力が生まれてくる間隙があろうと思います。
  
 ところで、その西郷隆盛の先祖、あの勤皇武士として知られた熊本の菊池一族だったことは、さまざまな書籍などで紹介されていますのでご承知の方も多いと思います。しかしそれを裏付ける資料などは現在のところないようで、西郷隆盛と菊池一族との同祖論は、日本人とユダヤ人同祖論同様、確証はないように思われます。 しかしだからといって、西郷隆盛と菊池氏との関係を否定するものでもなく、西郷隆盛は菊池一族だったと考えるほうが、歴史は面白くなります。

 西郷隆盛は、月照との錦江湾入水事件のあと、奄美大島に流刑処分となるわけですが、その際罪人ということで名前を変えて島に行けとお達しがでます。
 これは西郷の引渡しを求める幕府官吏に対して、西郷は死んだことにして、幕府官吏を追い返せ、という薩摩側の言い訳の辻褄あわせのためでもありますが、そのため西郷隆盛は死んだことにして、《菊池源吾》というまったく別人として奄美大島に流刑になります。
 これは西郷が自分の先祖が菊池一族であることを強く意識してのことです。西郷は生涯幾度か名前を変えていますが、菊池と名乗ったのはこのときが一回限りです。あとは西郷です。名前はころころ変わりますが。名前を生涯に変えていくという発想は、戦後の民法によって生きている私たちには奇異に感じられるところですが、なかなかの伝統的知恵と私は考えています。
 
 西郷が自分の先祖を菊池一族に求めたのは、菊池氏の歴史の中にそれなりの根拠があるからです。西郷は当然その事実は知っていたはずです。
 菊池氏は、肥後北部現在の菊池市一帯に勢力を持っていた豪族で、南朝方に忠勤を励んだ一族として水戸藩編纂の《大日本史》によって、一躍クローズアップされてきました。それが《王政復古》を理念とする明治政府によつてさらに強化され、菊池一族は、武家政権ではなく、それに抗する後醍醐天皇の政権にあくまで組する藩屏の模範生的イメージとしてクローズアップされてきました。
 
 その菊池氏、藤原氏をルーツとする説もあるようですが、もともとは九州土着の豪族であるようで、大宰府に近いところに居るところから、代々大宰府と関係が深かったようです。その菊池氏一族の支族に西郷氏がいますが、これが代々《隆》の一字を使用していたところから、西郷隆盛は先祖として意識したのではないかと思われます。
 現在菊池氏一族の西郷氏の居城だった増永城には西郷隆盛先祖の碑が建立されていて、西郷隆盛は菊池一族というふれ込みがすでに既成事実となっているようです。
 
 西郷という人間は、私なりに一言で言えば、《つかみ所がない》人間です。勝海舟の西郷に対するイメージと同じです。底がわからない、というイメージでもあります。彼が自分の写真を一枚も残そうとしなかったのは、そのあたりの自分に対するイメージの温存とも深く関わっていると思います。そういう意味では中々の知恵者でもあります。
 倒幕運動の中で、西郷は明確に自分のイメージの焦点を菊池武光に合わせ始めていたのかもしれません。史実はどうであれ、江戸幕府を倒し、新しい天皇親政による政権を作り出すフィクサーとして、自分のイメージ作りをしていったのではないでしょうか。いつしか西郷隆盛と菊池武光とが明確に一枚になり、既成事実になる。
 明治天皇の西郷隆盛に対する特別な親近感は、なにも明治天皇の少年期からの教育にかかわっていたということだけでなく、菊池武光の再来として西郷隆盛をイメージしていたのではないかというのが一つの見方です。南朝を最後まで支えてくれた一族、その子孫である西郷に対する特別な思いがまったくなかったとは言い切れないと思われます。 明治天皇と西郷隆盛との主従関係だけでは説明できないなにかとてもヒューマンな関係を思うとき、西郷隆盛の背後に菊池武光の影を感じるのです。




写真はわずかに残る遺構の跡。


写真は増永城の一角に建立された《西郷南州先生先祖発祥の地》と題された碑。碑文は徳富蘇峰になるものです。



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