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薩摩藩の名宰相 ― 小松帯刀

写真は鶴丸城跡近くに建てられている小松帯刀の銅像。目の前にある西郷隆盛の銅像と比較すれば、目立たず、観光客にも気づかれずにいます。

小松帯刀は、1835年喜入領主肝属伴兼の第三子として誕生。母は島津久貴の娘。
 肝属氏は、元々は大隈半島に勢力を有していた豪族です。薩摩を本拠地として勢力圏を拡大してきた島津氏に対して、肝属氏は大隈半島一円に勢力圏を拡大、大隈半島の南端に勢力を維持していた根占氏と大隈半島を二分していました。根占氏は東シナ海への手口に位置し、もともと平氏の流れを汲んでいるとあって、海洋貿易による富の拡大に関心が向いていたようで、内陸部へ勢力圏を拡大する肝属氏とは住み分けていたのではないかと推測されます。
 内陸部への勢力拡大を目指していた肝属氏と島津氏とは、いずれ雌雄を決する運命にあったと言えます。  肝属氏が最終的に島津氏の前に敗退していくのは、戦国時代末期にあり、島津貴久(島津義久、義弘の父)の時代にあたります。ここに大隈の肝属氏本流は断絶。
 ところで南北朝時代に南九州で唯一南朝方に与し、孤軍奮闘した肝属兼重は有名です。この時九州の南朝方の英雄菊池武光と共に肝属兼重も協力奮闘しますが、西郷隆盛の先祖が、その菊池一族ということになっていますから、肝属氏の血を受け継ぐ小松帯刀と菊池氏の血を受け継ぐ西郷隆盛との出会いも何やら因縁めいています。
 
  小松帯刀の誕生した肝属氏は、島津の薩摩半島統一事業の早い段階で島津氏に降り、加治木に領地を有することになった分流になります。
  のち豊臣政権時代の検地によって加治木から喜入に領地を移され、幕末まで喜入領主として薩摩藩の《一所持》21家の一つとして藩政に重きをなしていきます。
 小松帯刀がのちに養子に入った小松家とは、大隅半島の豪族根占氏のことですから、その昔大隅半島を二分していた豪族同士という因縁になります。


 幼少名は尚五郎。幼少のときより学問を好み、起きているときは、ほぼ勉学に励む日々であったと伝えられています。しかし身体が頑強でなかったようで、後の彼の早世を裏付けているのかも知れません。
 同時にこのころから、薩摩藩の誠忠派と呼ばれていた反おゆら派(斉彬シンパ)の面々との交際が始まり、政治の世界に関心を持っていくことになったようです。
 幼少の頃からの彼の利発さは衆目の一致するところだったようで、21歳で奥小姓として江戸に上がり島津斉彬近くに仕え、斉彬の影響をうけるようにもなります。
 22歳の時小松家の養子となります。先代の28代小松清みちは琉球使節役として琉球滞在中に病没しますが、子供がなく、妹のチカに尚五郎を迎えることで、小松家第29代当主とします。尚五郎を改めて、小松帯刀と改名したのは、24歳のときです。この年に島津斉彬が急死し、その後薩摩藩の実権を掌握した島津久光によって、小松帯刀はその才能を見込まれて、とんとん拍子に出世し、28歳の時点で家老見習いにまで進みます。薩摩藩の佐幕派と勤皇派との間にあって、小松帯刀は勤皇派から佐幕派に対抗できる名門の出身者として一身に期待されていきます。こうして彼は勤皇派、そしてやがて倒幕派へと流れていく薩摩藩の藩論を推進していくサムライたちの中心人物として幕末の日本史に登場してくることになります。当時の西郷隆盛や大久保利通では、家格が不足しており、どうしても家格の重さとすぐれた時代を読みきる知性が、さまざまな交渉を切り開いてくことを可能にしていたことは事実です。小松帯刀は、勤皇派の連中が期待する二つのものを備えていたのです。家格と開明的な知性。島津一族の血を受け継ぎ、小松家という家老職を務める家柄の当主。一方では幼少のころからの勤勉によって鍛え上げられていた誠実な知性。 藩主と藩内の下層クラスのサムライたちを中心とする勤皇派、倒幕派との連結役として、また制御役として彼の果たした役割は、もっと高い評価が与えられてもいいのではないでしょうか。 

写真は根占氏第16代重長を祭る鬼丸神社。根占氏は第17代重張の時、本拠地大隅半島の地からこの薩摩半島の吉利の地に移封されます。第17代重張は父重長を祭ることで、長く大隅で栄えてきた先祖との絆を改めて一族に示したのだろうと思います。


写真右と下は小松氏(根占氏)の領地吉利の館跡です。現在は吉利小学校となっています。

写真は、小松市の領地吉利の城下町(鹿児島では郷士たちの住んでいた町を麓と呼びます。)の雰囲気をかすかに留めている一角。


写真は、今でも確認できる《根占氏》の表札。小松帯刀とはどういう関係か。


写真は吉利にある小松帯刀の墓、奥に見えるのは夫人の墓です。吉利に移った後の根占氏歴代の墓所です。
 




写真は鹿児島市に残されている小松邸の石垣です。現在は民家になっていて、当時の面影は石垣くらいしか残されていません。ここから藩庁に通っていったわけです。
 
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