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島津氏のルーツ


鹿児島県郡山町にある『丹後の局』の墓。島津氏が頼朝落胤説につながるための史跡として考えられてきた。

 島津氏のルーツといえば、島津忠久が近衛家により島津荘の下司識に、さらに源頼朝によって薩摩、大隅 日向の守護に補任されたことによって、島津氏が始まると言われています。
 島津忠久については、源頼朝の落胤とか、またまた後白河法皇の御落胤という説もあって、その出自については実になぞめいた人物であることは確かです。しかし、確実に言えることは、摂関家筆頭の近衛家と深い結びつきにあった家系であったことは間違いないところでしょう。
 島津氏を名乗る前は、惟宗姓を自称していたようで、惟宗氏は近衛家の家司の家柄であったとされています。
島津忠久を頼朝の落胤とする説では、源頼朝と丹後ノ局(比企能員の妹)の間に子が出来たものの、北条政子による殺害の恐れがあったので、丹後の局は密かに鎌倉を脱し、大阪の住吉神社で休んでいたところ、にわかに産気づきそこで忠久を生みます。住吉神社に参詣してきたときの関白近衛基通が、嬰児の泣き声を怪しんで丹後局の姿を発見します。事情を聞いて深く同情し、京へ連れて帰り、密かに鎌倉の頼朝に知らせると、頼朝から三郎と命名するようにとの知らせが入りという筋書きです。
 その後数年間、母子共に近衛家の庇護を受けていたものの、ひそかに鎌倉に帰り、やがて丹後局は民部太輔惟宗広言に嫁することになります。広言の前室は畠山重忠の妹であったのですが、早逝したため、その継室となるわけです。三郎も母に連れられて惟宗家に入り、そのゆかりによって、惟宗氏を名乗るようになったというものです。三郎七歳の時、頼朝が三郎を召し出し、鶴ヶ岡八幡宮にて畠山忠重を烏帽子親として元服させます。このとき烏帽子親の畠山忠重から一字をもらい受け、忠久と改名したと。これが頼朝落胤説の大まかなストーリーになります。
 この筋書きが一般に流布している説です。しかし、専門家の間では、当然頼朝落胤説は俗説として退けられています。現在、鎌倉にある島津忠久の墓とか、大江広元の墓とか指摘されていますが、あれだって本当に当の本人の物であるのかどうかは当てにはなりません。というのも、明治維新という大事業を成功させたのが、長州と薩摩ですので、当の長州と薩摩が早速その先祖の功績を洗い出す作業に着手したのも事実です。当時の明治政府のトップにいる人々が薩摩か長州の人々ですので、彼らの先祖の功績を権威にあるものに仕立て上げることに着手したということです。実際その手の話、つまり薩摩や長州出身の役人が鎌倉に足繁くやってきては、墓のことなど詳細に聴いたという事実などが地元に残っているようです。
ところで忠久の実の父は、同じ惟宗姓の忠康ではないのかというのが専門家の間での指摘です。ただしその確定的な証拠となる文書が見つからない。しかし惟宗一族であることだけは、一致しているようです。
 それでは、惟宗一族という問題が次のテーマになりますが、惟宗氏とは、秦氏の支流ということになります。もう一つの接点は、摂関家筆頭の近衛家とは、とりもなおさず藤原氏ですので、藤原氏と秦氏との関係が問題になるはずです。ですから、当然次には、秦氏と藤原氏と惟宗氏との三者関係がどんな結びつきであったのかが焦点になろうかと思います。
 


補記
島津氏のルーツは惟宗氏であり、この惟宗氏は秦氏の改姓であり、この惟宗氏と、秦氏系統の移住地である大隅国分との密接な関係を積極的に認めているのは、大和岩雄氏です。氏が指摘しているところは、薩摩の地で、特に出水と国分で朝鮮半島の新羅の風習が見られるとして、新羅と薩摩大隅との濃密な関係を指摘されています。出水の地がこの鹿児島の地における島津氏の本拠地としてスタートしたことにも頷けるわけです。
  このことをさらに敷衍すると、島津氏は秦氏系統の一族で、彼らが薩摩の地に入り込んできた背景には、同じ一族の人々がすでに入り込んでいた事実があり、このコネクションで鎌倉時代になって現地に入り込んできたと考えられるわけです。



関連情報
秦氏についての情報は、薩摩紀行の隼人シリーズをご覧下さい。
おんなたちの墓−丹後局の墓
薩摩紀行−丹後局御腰掛石
サムライたちの墓―島津氏五代までの墓
史跡物語22回―系図偽作の巻




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