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永樹寺跡   広島県三次市吉舎




 永樹寺は、和智氏9代目の和智誠春(まさはる)が建立した寺と伝えられている。
 1568年の春、当時、四国は伊予国の河野氏を打つため、毛利軍として伊予に進軍していた和智誠春とその弟の和智元家兄弟を、元就の命令で、四国からの帰路厳島へ呼び寄せ軟禁した。
 和智兄弟は身の危険を感じ、隙をみて逃げ出し、厳島神社の社殿にこもり、火をつけると抵抗したが元就の命によって誅殺される。
 その報を聞いた南天山城の留守をあずかっていた家臣一同は南天山城ふもとの善逝寺で殉死していく。
  写真は、永樹寺跡と、この事件で元就に誅殺された和智誠春の供養塔である。
  和智誠春兄弟の誅殺については、現在でも明確な説は確定していないが、毛利氏政権安定化のためのスケープゴートという説と、隆元の急死に絡む元就の復讐説との説があるが、私は前者の説を採用したい。
  毛利元就の生涯を振り返れば、わかることだが、彼は一個人の感情などで一族族滅の挙にでるような浅はかな人間ではないからだ。
 毛利家内部の粛清として有名なあの井上一族の誅殺事件にしても、決して井上一族全部を皆殺しにしているわけではなく、一部のものをその後も毛利家家臣として扱っているのである。
 また、話は前後するが、元就が毛利家の家督相続をする際に、反元就擁立の動きをしたがために、誅殺された桂氏、渡辺氏にしても、その息子たちには毛利氏譜代家臣として仕えさせ、明治維新まで仕えている。
  元就の手法は、一言で言えば『たがをしめる』ということだろう。これは元就の生涯を通じて一貫している。しかも殺し方が巧みで、決して大義名分をないがしろにしてはいない。
 ここに毛利元就という人間の非凡さ、観音寺潮五郎氏が指摘したような『篤実なるマキャヴェリスト』という性格が如実に読み取れるのである。



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